2017/10/17

スタンダードが入れ替わることと、すきについて

インドに住み始めて1、2年の頃は日本に馴染めなくなることを大いに危惧してた

テレビでみた年を取ってからのオノ・ヨーコさんが鮮烈で

その鮮烈さをいつか自分も放ってしまうのではないかと


それが5年ももう終わろうとしている今は、すっかり自分の中のスタンダードが入れ替わっている

インドにいて「おかしい」と思うことより、日本にいて「おかしい」と思う瞬間が増えた

うっかりその自分の基準で、正しい、正しくないと声を上げそうになるけど

それはただスタンダードが違うだけ


国を超えると正義の基準さえ変わってしまうことがある

カリフォルニア州では大麻を吸うことは合法だけど、日本では犯罪者だったり

日本ではスケボーだって公道で滑ったら違法らしい

ちなみに今乗り換えのためにやってきたタイではブッタの絵をタトゥーにしたり装飾用に使ったり信仰以外の目的での使用は違法だそうで

時代によってだってスタンダードは変わる


そうなってくるともうほんとに自分が心からいいと思えることをやるしかないのでは、と思う

日本の学校教育では、いつも答えがあって、その答えは1つだと教えられて

さらにその答えは自分で生み出すものではなく与えられるものだと刷り込まれる

どんなに人の話を聞いても

どんなに名著を読んでも

やっぱり最後は自分の納得度な気がする

といいつつ真理は1つであるという気もしてる



さてさてまだまだLAショックを引きずっていて

LAでは言葉で理由を説明できないすきなものにたくさん出会った

海、潮風、太陽の光、青くてでっかい空、晴れの毎日、夕陽、スケボー、サーフィン、ストリートカルチャー、日常を支えるhip hop、所有する物質が少なくてもすきを大事に夢を大事に生きる人たち、苦しみを越えて明るく笑う笑い声


それからたくさん心を使った

スケートボードに乗ったときの恐怖感、大きい波がくるときの恐怖感、痛いところをつっこまれて怒り、傷ついて悲しみ、寂しそうなホームレスの人をみて哀れんで、友達のジョークに笑い、人の優しさに触れて喜び

こんなに自分って恐怖を感じるんだとか

こんなに人の言葉や行動に一喜一憂するんだとか


インドにいて刺激される感情といえば、主に怒りで

無表情時間が長すぎるために、目尻にシワが少ないんじゃないかという結論にいたるくらいの過ごし方をしてきた5年間


心のすきじゃないの声を無理矢理頭で押し込んできた5年間


LAにいてインドの話をする度に「実はインド全然すきじゃない」と言えるようになったこと


それなのにアメリカにないものが、日本にもないものが、実はインドには溢れてて、案外そんなにインド嫌いじゃないかもと思うようになったり


新たな視点を獲得したことが、わたしの姿勢を豊かにしてくれる

それはそれで迷いが増えるといえば増えているんだけど、豊かに迷っているんだと思う


インドで過ごす最後の1

そこにわたしの未来がかかっているような気もするし、なんくるないさーな気もする


チャンドラーさんにヤマニヤマの深い解釈を教えてもらって

まさに自分に対する信頼は、気合いとか信じよう信じようとして得られるものではなく

自分自身の信頼を裏切らない、自分の努力を積み重ねていくことによって少しずつ形を成していくのだと気付いた


マヤアンジェローさんは何かを得るためには必ず代償を払わなければいけないといい、

それがきっと努力という代償なんだと思う


わたしにとってはいつも頭でどうこう考えて出した結論より、直感のゴーサインのほうが確かで揺るがない

理由を説明できないけど、すきなものはたぶん死ぬまですきなんだと思う


いつもチャレンジしてきたような気がするけど、この1年は自分に嘘をつかないというチャレンジを


目標のために、具体的な努力の仕方を学ぶことは大事ですね


今はインドに対して、自分の人生に対してこんなattitude



嘘をつかない、他人にも自分にも

せっかく「すき」に出会えたんだから大事にしようと思うのです

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