2017/08/10

試験期間における愛の考察

ご無沙汰しております!


(おそらく)インド大学生活最後の進級試験が終わりました

何か起こらずしては終われないインドの試験

それは例えるなら高校球児にとっての甲子園であり、駅伝選手にとっての箱根であり、飲食店にとってのお盆休みなのですなんかちがったらスミマセン

つまりフル戦闘モードなわけです


人間が本気を出している時にこそ、数々のドラマが生まれる傾向なわけで

これまでのわたしだったらそれをおもしろおかしく、なんなら小バカにした調子で書き上げていたと思うのですが

今回はそういう気分ではなく


というのも、同じ寮で暮らす先輩後輩のサポートがほんとにすごかった

この寮はインターナショナルホステルなる名前がついておりますが、基本はスリランカホステルです

寮在住者の9割近くがスリランカ人なので、食堂で出てくるごはんもスリランカよりです

インドにいるのにシンハラ語をやたら耳にする稀有な場所でもあります

彼らはスリランカ政府から奨学金をもらって派遣された選ばれしものたちであり

日本の小学校低学年レベルで家族に保護されベッタリしていた環境の中から、突然異国の地インドへやってきたわけで

助け合わざるをえない

先にインドに来ていた先輩をお兄さんお姉さんと呼び、お兄さんお姉さんと呼ばれる人たちは後輩のことを妹、弟と呼ぶ

まさにこの寮は1つの大きな家族状態


そこになぜか紛れ込む日本人1


これまでは加わっているというより、ただ存在しているというか、まぁなんかいるよね的存在で、なるべく交わらずクールに過ごしていたのですが

今回の試験、また例の先生のなぞのエゴイズムアピール行動により、わたしは彼の科目の試験を受けられない疑惑が浮上


この試験なにが大事かというと残りのインドステイの期間がかかっているということでした

全科目パスすれば、11月くらいから1年のインターンをやってついに念願の帰国

1科目でも落とせば追試になって、最低6ヶ月はステイ延長

天国で過ごす6ヶ月となるか、はたまた地獄で過ごす6ヶ月となるか

ということでなにがなんでも一発合格したかったのに

試験を受ける前から追試になる宣告

すっかりやる気を失っていました


ところからのやっぱり全科目受けれるかもニュース

時はすでに試験2週間前をきっている


その状態からの盛り返しはほんとうにチームスリランカのおかげでした

(実際盛り返せてるかは結果をみないとだけど)

各科目得意な先輩がいて、それぞれがその科目を教えてくれる

日本だったら絶対お金を請求されるレベルの時間とエネルギーを費やして

夜中自分の睡眠時間を削ってまでも教えてくれる先輩たち

またそのクオリティの高さ

後輩は朝の寝起きに夕方の寝起きに、雨が降れば眠くなるからと13度もチャイを作ってくれたり、試験期間は食堂よりはるかにクオリティの高い朝食を学年交代で作ってくれて

ルームメイトは試験当日に着るクルタに毎朝アイロンをかけてくれたり、食堂に代わりにお昼ごはんを取りに行ってくれたり

口頭試験に含まれるcase taking中には、後輩が代わりにレパートリーシートを埋めてくれたり、先輩はケースを読み上げてくれたり

口頭試験の会場には必ず先輩も後輩も顔を出してくれて、お腹が空いてないか必要なものがないか確認してくれて


インドにいて初めて、"人の中で生かされている"ということを全身で感じた思いがけぬ貴重な時間を過ごさせてもらいました



インドと日本の対比で、日本は人様に迷惑をかけないようにと育てられるけど、インドは迷惑をかけるのが当たり前なんだから、人を許しなさいというように育てるという話をきいたことがある

実際にインドでお母さんが子どもにそんなことを言っているのは今のところ聞いたことがないけど、もし言っていたとしても言葉の壁でわかってないけど

たしかにインド&スリランカの人たちの迷惑のかけっぷりはハンパない


先にも書いた口頭試験中、科目によっては入院病棟でケースをとるわけです

それは事前にだれもが知っていることなわけです

そのケースをとる紙に普通は定規で線をひいたり、図を書くのに鉛筆を使ったり、間違えたら修正液を使うのは明白なわけです

なのに、どれも持ってこない

日本人的感覚からすれば、譲ってまぁまだ1年目なら分かる

今回わたしたちは4年目なわけです

さらにこのcase takingはわりと時間との戦いで、とにかく素早く正確に終わらせて、これから始まる口頭試験に備えて最後の詰め込みをしたい

それもみんなの共通認識のはずなのに、持ってこない

さらに日本人的感覚からすれば、持ってこなかった自分を恥じて、恐る恐る「貸してもらってもいい?」

でもインドではなにも言わずに右から左から手が伸びてきて、わたしも自分の手を伸ばして取り戻さないと返ってこない


また、それまであそんでて試験前に突然勉強ができてないとオロオロする人がいても、まぁ日本なら自業自得でしょだけれども

ここだとそこからみんなでなんとかしてくれようとする

一応あそんでたことへの小言は入りますが


さらに同級生の子は試験の時の提出物を代わりに先輩に後輩に書いてもらって、試験当日までになんとか間に合わせる



準備のよい人がいて、そうでない人がいる

得意な人がいて、そうでない人がいる

できる人がいて、そうでない人がいる

前者は後者を助ける

理由は、それが自分にできるから

後になんの見返りを求めるわけでもなく

とにかくそれぞれがよい方向に向かって、その時やれることやる



日本にもインドにもきっと同じくらい愛もやさしさもあたたかさもあると思うのです

ただその表現の仕方が今は全然違う

インドでは、お母さんや奥さん、ついでにいえば彼女も、まず愛する誰かのお腹が満たされいるのかを気にする

満たされていなければ、なにかをどうにか作ってなんとしてでも満たす

この国でどれほど「食事はすんだの?」と女の人たちに聞かれたことか

インドでお招きされて満腹で帰らないことはまずない

どんなに貧しいおうちでも、ごはんと豆だけのカレーだけど、これでもかというくらい食べさせてくれたことがありました


日本でもお母さんたちは、子どものことを愛し、いろんなことを気にかけています

添加物が含まれているのか

オーガニックかどうか

放射能はどうか

陰陽のバランスはどうか

本当によくここまでがんばれるなというくらい、勉強している立派なお母さん方

大人になったとき、子どもたちはお母さんの努力に頭が下がるはず

でもちょっと言いづらいけど、TBHわたしの経験からしても、子どものときは"それイコール愛されてるんだ感"につながりづらいのではないかという気がしています


日本では特に母娘の関係に悩む人がたくさんいるようで、わたしがホメオパシー健康相談を通して娘さんの話もお母さんの話もそれぞれ個別に聞く機会があったりします

娘さんは「うちの母は、母親らしくない母親であまり自分は愛されてこなかった」と

お母さんの話を聞くとお母さんは当時ほかのいろんな事情で、たしかに直接愛を表現できなかったかもしれないけど、できる限りベストの選択を娘のためにしたんだと


お母さんが娘の時代と娘が娘の時代と、大きく社会構造や価値観が変化していることもあるのかもしれません


日本にいる間、ついインドのノリで困ってそうな人がいると気安く声をかけてしまうのですが

大体いただく返事の第一声は「あ、大丈夫です」

インド化してしまってるわたしは(言い訳)それが日本の謙虚で慎ましやか文化であることを理解できずに、ならいっか!と返事を丸のみにして立ち去ってしまっていたのですが


愛はある、やさしさも思いやりもあるのに

表現する人と受け取る人がお互いに不器用なのか

お互い違うルールの上でそれを実践してしまっているのか

そしてお互いにそれを気付けないのか


コミニケーションのルールは、相互的であることだと聞いたことがあります(今日ちょうど習ったnew word 'reciprocal'

伝えたいことが伝わってはじめてコミニケーションといえる

まぁ100%正確には難しいこともあるでしょうが


それこそわたしだって今までインドやスリランカ式の愛情表現で育ってきてないので、突然手でクチョクチョされたカレーを口元に運ばれても、毎日3度母親から電話がかかってきても、正直ではありますが

同時にやっぱりおいしく丁寧に作られたカレーに、完璧なタイミングで出てくるチャイに愛を感じぜずにはいられない


胃で感じる愛

皮膚で感じる愛

たしかにprimitiveかもしれないけど、必要な時がある

満たされるものがある

絶対に


特にそこで苦しんでいる人たちがいるとすれば、確かに海外から賞賛される日本の美しい慎ましやか文化とは違うかもしれないけれど、そんなことを言ってる場合じゃないのではないかと


試験期間中、最高に情緒不安定になる中、自分の親子関係も含めて、なんだかそんなことを考えました



以上、試験期間における愛の考察をおわりますが

あ、それと愛の表現はタイミングがすごい大事だと思いましたがこれはまた今度


とにかくスリランカのみなさん、バーモストゥーティ!

ここにきてこんなことを体験できたこと、恵まれているなぁとじわじわ思っています


また試験期間が終われば、これまで通りの自分の目覚ましでは決して起きないルームメイトに、物を貸しては返さない先輩方にそんなこともろもろのチームスリランカは相変わらずですが


そんな中で生きる自分の気持ちの持ち用が少し変わったように思います


できることのバトンをつないで


Pay it forward 


もう一度、バーモストゥーティ!


後輩の淹れてくれた深夜のスリランカチャイ



(次回は、たぶん山の日デラックス試験期間における自分の考察でお送りいたします)

(いつか川の日もできるんですか?)


2017/05/21

なんでインドか

ホメオパシーを学ぶのになんでインドなのか
人に問われる以上に、自分で自分に問いた回数のほうが多いかもしれない

発祥の地ドイツではなく
王妃もホメオパシーを愛するイギリスではなく
ジョージヴィソルカスの学校があるギリシャでもなく

インド

外国で暮らしてみたいとぽわんと夢見たこともあったけど、それはどちらかというとアメリカのpartyなイメージで

インドに恋い焦がれたことは、覚えている限り今生では一度もない

この四年半の間、わたしに課題を与えてくれたのは、ホメオパシーよりもはるかにインドだっただろう

知らんぷりを決め込みたいところだが、わたしはなんでインドなのか知っている

男性が全くタイプではない
クラブで流れる曲が全くタイプでない
同級生たちがはしゃぐあそびが全くタイプでない

つまり、わたしがインドでやることは
勉強か自分に向き合うか

精神的にはしっかり、経済的にはそこそこ安定した家庭でのびのび育って
失敗も挫折もそれなりにはあったけど、それは全部自分のやりたいことの延長にあったことで

「ここらでこいつ頑張らせとくか」
神さまの粋なはからい
ほんとにわたしのことよくご存知で

これが最初の問いを投げたときに、わたしがたどり着く見解

そんなインドももう残り1.5年
夏はあと1回

インドにシミを作りにきたわけではなく
ましてや思い出を作りにきたわけでもなく

じゃあなにをしにきたのか

インドにきてから、自分に問いかけてばっかりです

なにかが実りますように



息をするのがやっとなわたしのコルカタの夏だけど、それだけ色が濃い

さぁ、帰ろう
ホームスィートホーム!

2017/05/05

憎まれっ子、インドに憚る

(インド基準では)痩せてていいね!とインドの友だちに言われ、わたしの健康維持方法をとくとくと披露している中で
熱いお風呂にも入ってるよ!と言ったら、ここは自然のサウナだからわざわざ入らなくても大丈夫だよと
たしかに、部屋でハタヨガをやれば、それはすなわちホットヨガになるここインド、コルカタは夏真っ盛りです

わたしの夏の星めぐりが悪いのか、過酷な夏だからなんでもヘヴィーに感じてしまうのか
インドでの夏は、なんらかの試練がやってきます
一番最初の夏は大部屋にぶち込まれたとこからインドスイーツ爆食いで激太り事件
その反省から試験が終わるとその日のうちに高飛びしてた2年目、3年目
ここコルカタの試験システムはインドらしく、全学年がいっせいに試験を受けるのではなくまず1年生、それが終わってから2年生。。。と順繰りにやってくるので、自ずと毎年試験の時期が少しずつズレて、いよいよ夏を避けられなくなった去年
いつ終わるとも分からない学生たちのストで試験を受けられる受けられない騒動からの村八分
学年91人のうちたった7人で臨んだ試験は、今となっては良き思い出です
あの時も辛かったなぁ。。。

天候的条件に加えて夏が辛いもう一つの理由は、これまたインドらしいというか、長期休みの設定にワケがあって
夏休みが5月中旬から約1ヶ月+試験休み=約2ヶ月
↓約2ー3ヶ月後
puja vacationが10月中旬から約1ヶ月
↓約6ー8ヶ月後(試験は夏休みは全く考慮されずに行われるので長さがいろいろ)
翌年の夏休み

というすさまじくアンバランスな長期休みの配置で、puja vacationから次に帰国できる時までの時間の長いこと!

さてそんな今年の夏はどんな試練がやってきたのかというと、インドいじられ祭です!
わたしが通う大学はインド唯一の政府立ホメオパシーの大学で、日本だと想像できなさそうですが完全にホメオパシー版「白い巨塔」です
ちなみに、これまた日本からすると考えられなさそうですが、インドのホメオパシーは完全に男社会なのです

わたしの師匠は、そんな大学の中で、一番行列のできる外来医で、その謙虚さとマテリアメディカの知識から学生たちにも愛され。。。結果、ほかの先生たちからの嫉妬の的となり。。。詳細はよくわからないけど、自分でその地位を退き、個人診療所で身を立てる決断をしたのでした
インドで公務員はやはり福利厚生に恵まれた安定の職業である中、さらに支える家庭もあっての中で、大きな決断だったと思います
で、話を現在に戻すと、嫉妬に燃えた先生方がめでたく今も大学に残っておりますので、この師匠を師匠と仰いでいるわたしがどうなるかというと。。。(過去にスパイを送り込んできてどの学生が師匠の診療所に通ってきているのか確認され済み)
光栄にも授業で最低2回はあてられる(1回もあてられない生徒もたくさんいる中)
case takingをする授業でわたしが提案するレメディは全否定される
なんなら今までの勉強の仕方を全否定される
さらにはインドにきてからの時間の過ごし方を全否定される
そしてこの方々の脅し文句は、「きみの行動は次の試験の結果に影響しますからね」

先生方の感情に試験結果が左右されるというのは、実際うちの大学で珍しいことではないようで
学生たちのごますりのプロさ!
それに比べてわたしのごまのすれなさ!

これは今に始まったことではなく、思い返せば小学校の時も先生と折が合わないことがあって
学校でいっさい笑わずに過ごした1年とか
学校とか権力とかどうも苦手!

しかしここインドではわたしのブスっと攻撃は、どうも違う解釈をされるようで
笑わない=真剣
「まい、静か過ぎる!もっと話しなさい。もっと笑うようになれば早く上達するようになる」
と言われたのは放課後のヨガ教室で
たしかにほかのおばちゃんたちのしゃべること、しゃべること(ヨガやりながら)
わたしからすると、いやヨガしに来たんだよね?だけど
これが真剣過ぎると言われる由縁なのでしょうかw

そう、いじられ祭といったのは、いじられのはこの大学の中だけではなく、ヨガ教室でも、加えて寮の部屋でも
(ルームメイトも面倒見がいいってことは。。。なのでした)
正確にはいじられるというよりは、ご指導ご鞭撻をいただくというやつです
大学でのからみは、「られる」というよりは「め」に置き換えたほうが適切なんではないかと何度も思いましたがw

これもインド(&周辺国)と日本の違いの一つなのかもと前向きな解釈を
わりと信じてもらってやりたいようにやらせてもらう環境でこれまで育ってきて
たぶん勉強しなさいと親に言われたことは一度もなかったような(お風呂掃除してとかはあったけど)
そっとしてもらう、失敗してもいいからのびのびやらせてもらうことに愛を感じる日本人、というかわたし
一方ここインドでは、お母さんたちが1日少なくとも4回とか寮に住んでる子どもに電話してくるような感じで
子どもも電話がないと、ほっとかれていると感じて落ち込んだり怒ったりするそうで
そんなことされたらわたしはもう母さんの番号ブロックしちゃうよって感じなのですが
干渉される=気にかけられている=愛されている
というインドの方程式
頭で理解できても、心がついてかなーい
せめて学校だけならまだしも、放課後も、さらに部屋に戻ってまでも。。。
かといってブスっと攻撃が真面目解釈されるお得感満載で虚しさいっぱいのインド!
どうするわたし

な精神状態で気温38度湿度80%以上
グチりの綱の マイシスターも忙しそうだぜ!
ブログに書きたくても、母ちゃん心配しそうだぜ!

(インドブログは状況説明から入らなければいけないので、いつも大変な分量になってしまい恐縮です)

いつも通り、悩み抜きました!

1.嫉妬に燃える先生たちとの向き合い方
分析した結果、敬意をかいまも見せない自分の態度が、余計先生たちに火をつけていることを理解しました
かといって尊敬できないものは尊敬できない
ごまなんかすれない
でも先生たちの指摘が全部的外れかというと、たしかに授業中の質問に答えられないのは明らかに自分の勉強不足によるもので
だから、これは先生たちと向き合っているというよりも、自分のエゴとの戦いなんだなと
笑えない自分
自分の非を認められない自分
先生たちの神性を認めない自分。。。

師匠のもとに通うのを控え、基本の勉強をまずしっかりすることにしました
先生たちの神性に敬意を払うことに決めました

そしたらいとも簡単に先生たちの態度が一変
わかりやす過ぎるよ、インド 人!

2.結果に対する心構え
指摘を受けると、わたしの性格はまず怒りの感情が湧き上がってくるのですが
マイシスターは、「ああそうでしたか」って感じで、まず滅多に怒りません

指摘の件に限らず、とにかくインドでこれまで一番向き合ってきた感情が怒りで
なぜなら、ちっとも「わたしの」期待通りに事が進まないから!
今になって思い返せば、いちいち日本の当たり前をこのインドにあてはめてしまっていたのだと、それはうまくいかないよと
だから最近は、うまくいっても「ああそうなの」うまくいかなくても「ああそうなの」の精神で

クリシュナも「何事もヨガの境地で行い、結果に対する執着を捨て、成功も失敗も平等に観よ。いかなる環境にあっても心を平静に保つことがヨガである。」とおっしゃっています

たしかに師匠も、フォローアップできた患者さんが「すっかり良くなりました!」といっても「ひどくなってるんだけど、どうしてくれるの」(ホメオパシー的悪化としてあり得る反応)といっても、「ああそうなの」な顔をして話を聞いています
わたしはかなりわかりやすく患者さんたちの経過に一喜一憂している今現在
これじゃあ1日100人みるホメオパシーの医師にはなれないなと

良くなるように自分のベストは尽くす!その後の結果は任せる!
これがわたしにとってインド生活をなるべく怒らずに過ごす極意かもとようやく

怒られても「ああそうでしたか」けなされても「ああそうでしたか」褒められも「ああそうでしたか」


そんなこんなで持ち直し、というかなによりも帰国の時が日に日に近づいているのが一番のレメディのような気もしますが
なんとかやってます!
いろんな人のいろんな表現の愛に支えられてるんだな!

順調にいけば、インドで過ごす夏ももうあと一回だけ
当初は恐ろしく長く感じられた6年ももうだいぶ終わり寄り
インドにホメオパシーを勉強しにきたつもりが、人格矯正プログラムがメインだったなんて
どこまでも恵まれております


あーおいしいざる蕎麦が食べたいな!

2017/03/12

苦しむこと

インドにきてから、ほぼ苦しみについてしか語っていないような気がするけど
今日は肉体の苦しみについてを

試験勉強からのlaptopで翻訳作業の流れ、加えてホメオパシーの分厚い本を抱えての長時間バスや飛行機での移動のためか
腰痛から首痛
インドでの雑なX線撮影で、見事に「頸椎症」とのお名前を頂戴し
追試の前に泣き崩れたのは、わたしの記憶に新しいところ笑

しかし、なぜか師匠はこの首の痛みをちっともまともに取り合ってくれない!笑
(意地悪ではなくて、もう一つ診断名がついてることの治療中のため、のはず)

世界中の頸椎症の人とわかりあえるくらい痛いのにー

そこから三十路直前の肉体的自己改革が始まりました笑

インドでの生活は明らかに運動不足で、それまでインドなのに俄然エクササイズ系のハタヨガ(逆輸入系)に、ちょいちょい通っていた頃は肩こり知らずだった身体
まずは定期的に運動をすることから

インドの友人たちのセルフィーへの情熱は、基本自分のベストショットを携帯の待ち受けにするレベルなので
なんてことない授業中もセルフィーのタイミングだったりして
そこに映る自分の姿に違和感
隣に映るインド美人と比べてどうにもならない顔の大きさはさておき、なんか姿勢が悪いかも
俗に言う巻き肩とかいうやつにカテゴライズされるやつで
姿勢改善も

さらにこの疲れやすさ
スリランカでシーフードを食べまくってるときはハイパーに過ごせたので
わたしのベジで牛乳苦手なインドでの食生活は、もしかしてタンパク質不足なのかも
プロテイン風なものも追加

ああでもないこうでもない、いろいろ試して数ヶ月
気付けば、首の痛みがほぼ良くなっている!

もし
なんかのレメディのおかげでスルスルとこの痛みが改善していたら、わたしはきっと自分を不健康にしている要因に注意を払わないままだっただろう

基本的に具合の悪いときは寝て治す家に育ったので
なにかある度に、なにか飲まなきゃ!なにかしなきゃ!
という感覚はあまりないのだけど

やっぱり痛かったり苦しかったら、どうにかしたくなるのも今回すごくよく分かりました
特に状況的に休んでいられないときなんか

いろんな自分なりの試行錯誤の果てに、
苦しむというとは、「苦しみを生むなにか」が自分にあるからなんだと

それがわたしの頸椎症の場合は、上に書いたようなことで
人によってはそれが食事であったり、生活リズムであったり、トラウマだったり、遺伝的なことだったり、精神的なことだったり
同じ頸椎症という診断名でも、「苦しみを生むなにか」は人それぞれなのでしょう

師匠もガンのホメオパシー治療のときによくこう言います
「ガンを発症する原因は、一概に語ることはできない
それは単純なものではく、複合的なもので
人によって違う
同時にそこがガン治療におけるホメオパシーの可能性なのだ」

ホメオパシーは、同じ病名でも一人一人を個別化をして治療します
一人一人のその複合的な原因を、明らかにして見極めてレメディを選んでいくのです

よく「なになに(病名)のレメディはありますか?」と聞かれるけど、答えはyesでno
というのもホメオパシーは”病気”を治すのではなくて、病気を患っている”人”の治療をするからです

さらにホメオパシーは、この遺伝的な部分(ホメオパシー的にマヤズムと呼ぶもの)へのアプローチができるところも、すごい強みだと思ってます
(ただ遺伝的な部分に対する治療は、やはり相当時間がかかります)


ホメオパシーから話を戻して

苦しみ万歳!的なマゾヒズムを唱えたいわけでも、苦しみありがとう!的なエモーショナルな感じでもなく
今回師匠の見事なスルーによって、教えてもらったことは

苦しんでいるということは、自分に直さなければいけないなにかがあるということ
周りにではなくて、自分に
同じ環境でも苦しむ人と苦しまない人がいるということは、やっぱり自分になにかがあるんだということ
そのなにかが改善されるまで、苦しみは続く
苦しみは「なにかが変だよー」というサインなんだということ

これは決して肉体だけの話ではなくて、わたしの得意分野精神的苦しみについてもきっとそうで
わたしはインドにほんとに自分を改善しにきたんだなぁと何度も何度も思う
ただ精神的なことは、肉体以上に変化に時間がかかるようで
今もまだいまいち進化を感じられないのですが
きっと苦しみが苦しみじゃなくなったときに、わたしはインドを出発できるのだと、時に前向きに思ってます

たとえば、以前も書いたルームメイトのこと
前のルームメイトは今回の部屋替えで一人部屋をget(彼女は最高学年なので)
実はわたしも一人部屋をgetできるかもという噂が流れ、大いに期待しちゃってたのに
やはりまだ苦しみ足りなかったのか、神さまからの許可がおりず
初めての後輩ルームメイトを迎えました
後輩としてめっちゃ気を遣ってくれるからなのか、いまだかつてない快適感!
一人よりいいかもと思うくらいの過ごしやすさで、これをcompatibleというらしい(というかなんでもしてくれるw)
なんか、これまでの苦しみが報われるときがくるんだと
大袈裟すぎるかもしれないけど、わたしはふいに確信しました

いつかきっとインドでのこの日々が、報われるときがくる
いつかわからないけど、いつか必ず
どんな小さな苦しみも、すべて

3.11からこの6年、「忘れないように」と思って生きてきていたけど
今年は、忘れないなぁと
わたしが今歩く道は、そこから伸びているから

早くに亡くなった友達たちも
忘れないようにと体に刻もうとしたこともあったけど、忘れようがないのだと
その子たちとの時間があって、今のわたしがいるのだから

この6年間
忘れないということは、苦しみ続けることだと思っていたような気がします
でも、なんかそうではないのだと
わたしにとっては
そこから伸びる道を、しっかり生きること
今のわたしをしっかり生きること

祈るように生きる時間が少しでも増えていきますように

ホメオパスという、人の苦しみと向き合う職を選んだこと

それは確かにこのインド修行が必要なはずで
そしてそれは確かに苦しみネタが絶えないわけで

今のわたしにとっては、苦しむことは生きることそのものでもあるのかもしれない
全然前向きに聞こえないけど、前向きな意味で笑


2017/02/22

愛する技術

ホメオパシーの本とヒンドゥー教の本と英語の授業で課されて読んだ本以外でおそらく初めて読んだ英語の本
The Art of Loving - Erich Fromm

心理学者の書いた本だそうで、ほぼ数行おきに辞書を引いて読みました
日本語訳本も出てる

そのうちのThe practice of loveがかなりぐさっときたので、書き留めておきます

筆者は初めに、愛することはart(技や技術)であると述べて、どんな技を習得するにも以下のことが必要だと
それはもちろん愛することも例外ではないんだよと書いています

愛を実践するために必要なこと

それは
Discipline(自制心)
Concentration(集中力)-sensitive to oneself(自分自身に注意深くあること)
Patience(忍耐力)
Rational faith(理性に基づいた信念)(Rational faithとはproductiveなものだと)

これってまさにホメオパシーを学ぶことにも必要なものだなぁと

今までわりと視野せまく、ホメオパシーだからホメオパシーだけ!グルジだけ!bfだけ!と過ごしてきたけど、それで行き詰まったとき、立ち位置を変えてみることも大事だなぁと
ちがうものを通して、物事の本質について考える
だから良い本を読むことはたのしいし、いろんな経験をしている人と話すのもたのしい

自信に満ち溢れた友だちに「愛することって簡単じゃないよね」というと
「簡単だよ、自分のこと愛してる?」
「almost」
「じゃあ難しいかもね」

そこで自分を愛するということについても考えていたのですが、
これまで結構自分に対する愛がcondtional loveだったんじゃないかと
あれができないとヤダとかダメとか自分に課していて
だから負けず嫌いだし、うまくいかないと不機嫌になり笑 なのかもなぁと
でももしかして愛そうとしている自分が、これまではマーヤにかられた不完全な自分であったからで
魂である自分を愛せば、unconditional loveになるのかもしれないと
そしてそれは自分だけでなく、まわりの人たちについてもで
それがrational faithをもつことなのかもしれない


鬱滞しがちなインドの日々
かたくなってしまいがちな心もなにかのせいにするのではなくて、
やわらかく保つ方法を学びたい

もう大丈夫、と思えるまできっとインドでの修行はおわらないのでしょう

なぞの中だるみ期間
乗り越えたいよー

2017/01/26

スリランカ人のルームメイトとの付き合い方

追試が終わって(無事にかはまだ不明)スリランカへ行って参りました!
わたしにとっては、ドストライク!
豊かな環境、親切すぎる人たち
あーさいこうだったな


このスリランカの旅の目的の一つは、ルームメイトだった先輩に会いに行くこと
彼女はわたしがインドに来てから初めてちゃんとルームシェアをした人で
既に1年前にコースを終え、母国スリランカに帰国
彼女は、慎み深く穏やかで、さらにはとても面倒見のいい人で
わたしのインド一発目の一年生の進級試験は、大げさではなく彼女のおかげで合格することができました (ほんとに右も左もわからなかった)

そんな彼女がスリランカでどんな風にホメオパシーのプラクティスをしているのか
自分の未来を描く参考にも、この目でみてみたかったのです
仏教寺院の中にある診療所

先輩

こんなかんじ

先輩の実家のプライベートクリニック

もしスリランカでホメオパシーを!という方がいらっしゃったらぜひお問合せください♡先輩をご紹介します!


スリランカも政府がホメオパシーを公認しているので、毎年スリランカ政府が学生を5〜9名程わたしの通う大学に送ってきています
とはいえ、それが始まったのが9年くらい前からなのかな?
既に何名か卒業生が帰国して臨床しています
その前からホメオパシーを使っているドクターもいたようで(アーユルヴェーダと併用とか)、お父さんがホメオパスだっていう子も何人か
でもホメオパシーの認知度はやはりまだまだだそう



今回の旅の最初から最後まで、前のルームメイトと前の前のルームメイトと今のルームメイトにお世話になりきって
移動手段はあれがいいよとか、わたしの代わりにひたすらスリランカでのスケジュール調整をしてくれた今のルームメイト
朝5時着という迷惑極まりないタイミングの飛行機で着くわたしを、車をレンタルしてしかも弟が運転して(片道3時間)迎えにきてくれた前の前のルームメイトの先輩

前のルームメイトは、本人がいないのに弟と両親がこれまた車をレンタルしてわたしたちを観光に連れていってくれたり(さらにはおばさんといとこたちも参加)

ルームメイトではない先輩は、これまた本人がいないのに、お父さんがバイクで迎えにきてくれてお母さんが朝ごはんをご馳走してくれて、昼ごはんはお弁当に持たせてくれたり

いろんな家族とトータル8回も異なる仏教寺院を訪れて。。。



これまでのインドでの4年間、わたしにとってはまさに「戦い」だったのが
スリランカでの至れり尽くせりの真心、思いやりにお腹も心もほんとに満たされて

今までどれほど自分が乾いていたのかを深く実感することになりました

騙すか騙されるか、なんなら生きるか死ぬか
くらいの気合で生きてたインドの日々
それは対インド人だったり、対インドの文化や習慣だったり、対自分の未熟さだったり
そんな日々の中で
「人を思いやる」っていうことをすっかり失っていたようで
「人にやさしく」なんて唄を聞きたくなることもなくなるくらい
いいホメオパスになりたいと思ってきたのに、全くそれは相反する姿勢のようで

ということを思い返させてくれるのは、仏教の教えを実践するスリランカの人々ならではだったのかもしれない (プラス一緒にブッタガヤを旅した心のきれいな日本の友人の言葉もあって)

完全にわたし論ですが
人生にはきっと戦わないといけない時もある(ヒンドゥーの神話にある殺し合いとかっていう描写は、文字通り物質として肉体としての殺し合いではなく、精神や霊性の話の例えらしい)
でもやさしくなれるだけ、やさしくなりたい
単に表現の違いなのかもしれないけど
このへんはもう少し本を読んだり勉強をして、これから考えていきたいところ

スリランカでひたすら日本の仏教について聞かれるけど全然答えられず
すっかりヒンドゥー傾倒気味でしたが、原始仏教の勉強もしてみたいと思ったそんな旅でした
(なんとたまたまお正月にいったブッタガヤにダライ・ラマ法王がきていたこともあり)


そう、もともとはルームメイトの話!
わたしはわりと長時間ずっと同じ人といるのが苦手で、これまでどこかでイライラしてしまったり疲れたりしてしまっていたので
結婚なんかできないんじゃないかくらいに思ってて
従って、このルームメイト制度はわたし史上ひとつの課題でありました

来た当初は正直「わからない」の一言に尽きたと思う
どうやって話したらいいかわかんない
どうやって付き合ったらいいかわかんない
どうやってルームシェアしたらいいかわかんない
ただでさえ日中も街中も人々がほっておいてくれないのに、部屋に戻ってきてもプライベートゾーン一切なしの生活は苦しくて(文字通り仕切りなしにベッドを横に並べるルームシェア)
今まで家族に当たり散らかしてきた分を、多々ルームメイトにぶつけてきてしまったかもしれません(寝起きも悪いし)

それでもこんなに温かくインドから送り出してくれて、スリランカで迎え入れてくれた旧&現ルームメイトたち

自分のここまでのインド4年間を振り返って
100%快適だとは言えないけど、それでもルームメイトと心地よく過ごせている今(彼女がここにいるスリランカ人きってのきれい好きさんってのもあるかもだけど)
少しはルームメイトとの付き合い方がわかってきたのかもしれないと(まだ彼氏にフラれて号泣するルームメイトにオロオロしてるけど)
苦手を少し克服しつつあるのかもしれないと(まだできたら一人部屋がいいけど)
そんな感慨にもふけりました

家族との付き合い方も
BFとの付き合い方も
師匠との付き合い方も
患者さんたちとの付き合い方も
ホメオパシーとの付き合い方も
習うより慣れよで体当たりしてきて、今も現在進行形で
それを戦いと名付けて、傷つけ傷つき疲弊したり
でも大きく後ろを振り返れば、少しは良くなっている今がある

これほどのチャンスをもらえて、ありがたいな

さぁインドも(おそらく)残り2年です

まだまだいきます!



2016/12/13

ホメオパシーといえば、「毒をもって毒を制す」のアレだよね?え?ちがうの?

「ホメオパシー!」
というと合言葉のように
「毒をもって毒を制す!」
と返ってくるような気がする日本ですが、
インドでホメオパシー教育を受けているわたしは、これを聞くといつもどうもモヤモヤしてしまうのです。。。

【前提として、インドのホメオパシー教育】
・Organon of Medicineは第5版と第6版が両方記載された英語のものを勉強する
・なぜかというと第5版はハーネマン医師が生きている間に出版された最後のバージョンで、他の人に加筆修正されている疑いがないのに対し、第6版はハーネマン医師の死後78年経過してから出版されているものなので、ハーネマン医師が一人で書き上げたままなのかはたまた誰かに加筆修正されてしまっているのか神のみぞ知る状態だから
・英語なので、原典であるドイツ語の'Organon der Heilkunst'の翻訳本である
・第5版の翻訳者はR. E. Dudgeon
・第6版の翻訳者はWilliam Boericke

よってわたしの知識は英語に翻訳されたOrganon of Medicineの第5版と第6版の合同バージョンによるところであります


【「毒をもって毒を制す」の元となった言葉】
それは"Similia Similibus Curantur"(ラテン語)
英語訳は"Like Cures Like" or "Like is cured by like"

これこそがホメオパシー医学の名前の由来(Homoeos=similar + pathos=suffering)になった、そして最も核となる原則でしょう

しかしこの原則自体は、ハーネマン医師が発見したものではありません
ではだれが!?
医学の父と称されるヒポクラテスさんの登場!
彼の著書"Natura Morborum Medicatex"の中に、この原則が言及されています

しかし厳密には第一発見者はヒポクラテスさんではなく、アーユルヴェーダの本だとかヒンドゥーの本だとかなんとか
今日は歴史の会ではないので、ここは掘り下げずにおきますが

ヒポクラテス医師は、病気を治療するにあたっての原則として
"Similia Similibus Curantur" (Like Cures Like / Like is cured by like)と
"Contraria Contrariis Curantur" (Opposite Cures Opposite / Opposite is cured by opposite)の2つをあげました

ヒポクラテス医師もこれらの原則に基づいて臨床を行っていたそうですが
このうち "Similia Similibus Curantur" (Like Cures Like)のみを基礎として臨床を始めたのがハーネマン医師です

"Similia Similibus Curantur" (Like Cures Like)に戻りましょう


【これをリーダーズ英和辞典でひいてみると】
毒をもって毒を制する

なんと辞典に明記されちゃってる!(冷汗)


【これを医学英和大辞典(南山堂)でひいてみると】
 ”類似物をもって類似症は治癒される”というヒポクラテスの格言で、パラセルサスParacelsusも"同類は同類を癒す"と宣言したが、後年Hahnemannはこの信念に基づいて同毒療法または類似療法の一医療派を創立した

とのこと(ほっ)


【辞典はいったんおいといて、直訳してみよう】
"Similia Similibus Curantur"
わたしもラテン語はよくわかりませんが、ここは英語の
"Like Cures Like"に着目して、素直に日本語に訳してみると「似たものが似たものを治す」
"Like is cured by like"だと直訳は「似たものは似たものによって治癒される」
これをカッコよくフォーマルにいえば、医学英和大辞典(南山堂)のように「類似物をもって類似症は治癒される」ということになるのでしょう

素直に訳したら、どこにも”毒”という言葉はないのです


【そもそもホメオパシーのレメディは毒なのか?】
「毒をもって毒を制す」というホメオパシーの説明を聞いて、なぜわたしがモヤモヤするのかというと、「ホメオパシーのレメディは毒である」と思っていないからです

たしかに毒物を素として作られているものもあります
有名なところで、
Lachesis:クサリヘビ科に属する毒ヘビの一属であるヘビ毒を素として作られている
Nux vomica:マチンという数種のアルカロイド、特にストリキチーネ・ブルシンという毒を含む植物の種を素として作られている
などなど

では、例えば!
Lachesisという毒ヘビに咬まれて症状が出た場合、Lachesisというヘビ毒を素として作られたレメディを処方し、効果を得られたとします
これは確かに毒をもって毒を制す的な治療法のように思えます

でもここでもう少し踏み込んで考えてみたいのは、
1. Lachesisというレメディは一般的に毒と言えるのか?
2. 今回はLachesisの毒の悪影響にLachesisの毒を素として作られたレメディが効いたけど、毎回そうなのか?
3. ホメオパシーはいつもいつも「毒をもって毒を制す」なのか?

1. Lachesisというレメディは一般的に毒と言えるのか?
忘れてはいけないのが、ホメオパシーのレメディを作る過程での希釈震とうというプロセスです
これによって、レメディにはその素となった物質が分子レベルで含まれていないくらいに希釈されるのです(12C以上)
そんなものが効くのか?ということについては、これまでの歴史や身近な人やご自身の経験にお任せするとして
ホメオパシーのレメディがいつも毒であるとは、わたしは言えないと思っています
なぜなら、レメディを飲む人にそのレメディに対する感受性がない場合、なんの変化も起こらないからです
しかし、それは飲む量、飲むタイミング、飲む期間によって、もちろん毒にもなりえます
(あらゆる薬と称されるもの、健康食品などにしかり)
特にLachesisのように毒物からできているレメディはその効力が強いので、適当にポイポイ飲むのは全くおすすめしません
なんの変化も起こらないというのは、かなりいろんな条件の上で言えることです
しかし、逆に、例えば植物からできているレメディで、ポーテンシーがそれほど高くなくて、反復回数も少なかった場合、そしてレメディを飲む人にそれレメディへの感受性が全くなかった場合には、なんの反応も得られないでしょう
俗に言われる、レメディ外した状態です
そんなレメディは毒と言えるのでしょうか?


2. 今回はLachesisの毒の悪影響にLachesisの毒を基として作られたレメディが効いたけど、毎回そうなのか?
ホメオパシーのレメディ選択は、患者さんのもつ兆候と症状に基づいて行われます
「毒をもって毒を制す」的に、病を患っている状態がなにかの毒性物質によって引き起こされている場合、その毒性物質からできているレメディを処方することも多々あります
(Radium brom. X ray. Tabacumなどなど)
でも、”いつも”ではない
蚊に刺されによるひどい腫れが、Apisというミツバチからできているレメディによって治ることもあれば、Caladiumというサトイモ科の植物からできているレメディによって治ることもある
同様にLachesisのヘビ毒による影響でも、必ずしもその患者さんの症状がLachesisというレメディによってよくなるわけではないのです
(ここがホメオパスの腕の見せ所でもあるわけなのですが)

3. ホメオパシーはいつもいつも「毒をもって毒を制す」なのか?
レメディはかなりいろんなものからできていて、前述したように毒物であったり、植物であったり、鉱物であったり、細菌やカビなんかからもできていたりします
身近なもので、水晶とか塩とか砂糖とか蜂蜜とかイカ墨とか。。。
アーユルヴェーダでは、「水さえも薬になる」と言うそうで、たしかにそれぞれ使い方によっては原物質のままでもなんらかの影響を身体に与えるでしょう
たしかにそれが毒となることもあるでしょう
でも一般的に、 水晶とか塩とか砂糖とか蜂蜜とかイカ墨を毒とみなすでしょうか?


【一応パラケルススにも触れておくと】
この方wikiを読むとなかなかぶっ飛ばしてる方みたいなんですが、毒性学の父と呼ばれているそうで

↓以下wikiからのコピペ
「全てのものは毒であり、毒でないものなど存在しない。その服用量こそが毒であるか、そうでないかを決めるのだ」 (ドイツ語: Alle Dinge sind Gift und nichts ist ohne Gift; allein die Dosis macht es, dass ein Ding kein Gift ist.) あるいは「服用量が毒を作る」 (ラテン語: sola dosis facit venenum) という格言は、パラケルススによるものである[28]
ーコピペ終了ー

またこちらによると、"Poison can be cured by poison"ともいってるとかなんとか
これぞまさに毒をもって毒を制す!

おそらくですが、リーダーズ英和辞典の訳はこのパラケルススのコンセプトに準じた訳なのではないかと推測しました
(パラケルススについて全くの勉強不足をここに宣言します)


【まとめると】
自分でもなんだか揚げ足をとっているような、細かいニュアンスにこだわりまくってるような気もしてきましたが
あまりにもこの「毒をもって毒を制す」という言葉のインパクトに、ホメオパシーがひっぱられているような気がして
ホメオパシーがまっすぐに伝わっていないのではないかと懸念してきました

たしかに広義に解釈して、そういえることがあるかもしれない

でもそれをホメオパシーの核の原理として語るには、意訳しすぎているというか、飛ばしすぎというか

翻訳をするとき、ベタな例えで恐縮ですが"LOVE"という英語の言葉に対して、日本語では
愛、好意、慈悲、敬愛、恋、恋愛、色情、性交、(夫婦恋人間で)あなた…
といろんな言葉が該当して、これらのうちのどれを意味するかというのは、文の前後であったり、話す人同士の関係性であったりで、変わってくるし決まってくるものなんではないかと思います


"Similia Similibus Curantur"には、意訳して毒をもって毒を制すという意味もあるでしょう




でもホメオパシーの話をするときの、 "Similia Similibus Curantur"は

「似たものが似たものを治す」
「類似物をもって類似症は治癒される」

といった表現を用いたほうが、誤解なくホメオパシーを伝えられるのではないかとわたしは思っています

さて、いかがでしょうか?